11年働いた結果、給料が労働の対価とは思えなくなった4つの理由を説明します

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まさかの退職をきっかけに「自分の人生の舵は自分でにぎらなくてどうする」と気づき「かじとりズム」はじめました。コンセプトは「デキる無職になって人生を冗長化する」。会社員より圧倒的にデキる無職なるよコノヤロー。

こんにちは。カトー(@hisayosky)です。

 

突然ですがみなさんは「給料」ってどんなお金だと思いますか?

 

けん子
藪から棒に何言いだすのよ。

働いて会社からもらうお金に決まってるでしょ?

引きこもりすぎておかしくなっちゃったんじゃないの?

 

たしかに給料は会社から「労働の対価として」もらうお金です。

 

では考えてみてください。

給料は自分で稼いだお金でしょうか?

 

ぼくは会社に勤めているときずっと自分でお金を稼いでいる実感がありませんでした。だれかに何かを売ったり買ってもらったりしたことがなかったからです。

たしかに仕事はしていました。でも表面的にはそこにお金は絡んでおらず、自分の仕事がお金を生み出しているとは思えなかったのです。

 

極端な話、多少仕事をさぼっても同じ額だけもらえるのが給料です。だとすると給料が労働の対価というのは少しおかしい気がしてきます。

 

では何の対価だったのか。

ぼくは「がまんの対価」であったと思っています。

 

今日は給料ががまんの対価であると思う理由について書いていきます。

 

稼いでいる実感がもてなかった理由

病院では意外と「稼ぐ」という言葉が使われています。「もっと稼がないと」と何度耳にしたかわかりません。入社当初はかなりびっくりしました。

ちなみにリハビリの場合、「稼ぐ」とは「患者さんの数をこなす」または「単位数をたくさん取る」ことを意味します。数さえこなせば稼げるのがリハビリです。

しかしぼくにはどうしても自分が稼いでいるとは思えませんでした。理由は3つあります。

 

理由その1:自分の技術に値段がついていなかったから

リハビリの売り物は「リハビリの治療技術」です。

これには「診療報酬点数」という形で値段がつけられていますが、患者さんにわかる形で値段がついているわけではありません。「リハビリ1回〇〇円」「点滴1本〇〇円」みたいに値札はついていませんよね。

保険診療機関は実施した診療内容等にもとづき、診療報酬明細書(レセプト)を作成し、公的医療保険を請求するが、明細書の各項目は金額ではなく点数化されている。診療報酬点数は厚生労働省告示する(健康保険法第76条)。

1点=10円。医療機関等で保険を使って診断・治療を受ける(保険診療)ときに用いられる医療費計算の体系となっている。

出典:Wikipedia

 

もし患者さんにわかるように値段がついていたらはたして自分の技術は買ってもらえるだろうか、という疑問はずっとありました。

そして「値段がついていても買ってもらえる」とは最後まで思えませんでした。

おそらく買ってもらえたとしても10人に1人くらいだったでしょう。「お金を払ってでもリハビリしてもらいたい!」という人の割合はそのくらいかと思います。

 

理由その2:患者さんの求めによって仕事をしていたわけではなかったから

どんな商売でもまずお客さんが「ほしい」といってから商品やサービスがやりとりされます。その点において医療はきわめてまれな例外です

どんなサービスを受けるのか決めるのは患者さんではなく医師です。医療が専門的なことがらであり患者さんでは判断ができないからそうならざるを得ないのはたしかです。

しかしこの構図をハンバーガーショップに当てはめてみますと、

店員さんに「お客様にはこれが必要です」と言われて頼みもしないポテトやドリンクを買わされている

ということになります。かなり変なことになっているのがおわかりいただけるかと思います。

 

リハビリはハンバーガーショップの例でいえばポテトです。患者さんがみずから「ほしい」と言って行われるものではないのです(患者さんの要望で始まる場合もゼロではありません)。

患者さんも「先生に必要と言われたから」やっているという意識の方が多いでしょう。

 

やれば「ありがとう」と言ってくださる方はたくさんいます。

でもわかりやすくお金がからんでも同じように歓迎される自信はありません。はたして値札がついていたとしても同じように「お願い」と言ってもらえたでしょうか。

 

理由その3:どれだけやってもやらなくても給料は同じ額だったから

稼いでいるお金だったら成果が上がるほど入ってくる金額が増えるはずです。逆に成果が芳しくなければ入ってくる金額が下がることでしょう。

給料は成果にかかわらずほぼ一定額が支払われます。それが給料のいいところといえばたしかにそうです。とくに成果が思うように出ていないときにはありがたく感じられます。

 

いっぽうでどんなに成果が出ても金額に反映されないのもまた給料です。

プロ野球選手の年俸はシーズンの成果をもとに交渉が行われます。

プロ野球選手は直接お金を扱っていませんが、自分のやったことに対して「このくらい上げてください」と言うことができ、そのような訴えには効力があります。これなら「稼いでいる」と言えそうです。

給料の場合はいいときも悪い時も成果がほぼ反映されません(うちの会社はそうです)。これも稼いでいる実感が持てない理由のひとつでした。

 

「仕事なんだからがまんしないとね」ってことは「仕事=がまん」なのでは?

給料が労働の対価ではないとすると、いったい何の対価と考えればいいでしょうか。

ぼくは「がまんの対価」だったと思っています。

 

会社には嫌なことや理不尽なことがたくさんありました。にもかかわらず当然のように受け入れてこられたのは「仕事だから当たり前」と思っていたからです。

「仕事だから当たり前思考」はヤバい。イヤなことに気づけなくなっちゃうよ

 

「仕事なんだからがまんしないとね」とか「しょうがないね」という類の言葉は何度耳にしたかわかりません。

会社にいればつねにがまんすることだらけです。がまんすることはつねに安定して起こっており多少の増減はあれど大きく減りもしなければ増えもしません。

給料ががまんの対価であったとしたら、成果によって金額が増えないことももらえる額がほぼかわらないもの筋が通ります

今回ぼくが会社を辞めるに至ったのも会社で起こるいやなことががまん料と釣り合わなくなったからと考えればとても自然なことに思えます。

 

給料はがまん料

そう考えたほうがしっくりきます。

 

給料が「がまんの対価」としたら今の額で満足ですか?

会社はもちろん給料をがまん料として支払っているつもりはありません。あくまで労働の対価のつもりで支払っているはずです。

同じ20万円でもそれが「何に対する報酬なのか」によって受け手の感覚は変わってきます

 

「あなたの労働の対価です」と言われてもらう20万円は妥当と思えるかもしれません。

「これはあなたのがまんの対価です」と言われたらどうでしょう。20万円は十分な額と思えるでしょうか?

 

何の対価であるのか決めるのは自分

ぼくは入社以来、給料が労働の対価であることをずっと疑っていませんでした。

しかしここへきて「違うんじゃない?」という考えが浮かび、しまいには「これはがまん料だ!」と思うに至りました。

会社はあくまで「給料」としてお金を支払ってくれます。それが何の対価であるのかは考えてさえいないでしょう。会社における給料とはそのくらい自動的に流れていくお金なのです。

 

給料が何の対価であるのか。

決めるのは結局受け手である自分自身です

ぼくがそうであったように受け手の感覚は時と場合により変わっていきます。

もし給料が労働の対価と思えなくなっていたら一度考える必要があるかもしれません。

自分はこのままでいいのか」ということをです。

 

まとめ:自分にとっての給料は残念ながら「がまん料」でした

  • 給料を「稼いでいる」実感はある?
  • 自分の給料が何の対価かすぐに答えられる?
  • もし「がまんの対価」になっていたら本当にこのままでいいのかちょっと考えたほうがいいかもよ。

 

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