国家資格でちゃんと食える専門職に就いているぼくが仕事を変える理由

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まさかの退職をきっかけに「自分の人生の舵は自分でにぎらなくてどうする」と気づき「かじとりズム」はじめました。稼ぐチカラをつけて、人生をコントロールしよう。

こんにちは。医療従事者のカトーです。

いまだ会社で働きつつ着実に消耗する日々を送っていますよ。

 

 

 

ぼくはいま言語聴覚士をしています。

言語聴覚士はリハビリテーションをする職種です。理学療法士の仲間ですね。

病気や怪我で障害を負った患者さんが食べたりしゃべったりできるようにするのが仕事です。

くわしく知りたい方はこちらをご覧ください。

仕事の内容から就職状況まできれいにまとめられています。

>>>【参考】めざせST(言語聴覚士)

 

 

言語聴覚士は国家資格で立派な専門職です。いちおう生活できるくらいの収入もあります。就職先もわりとあります。

 

わたくしはこういう仕事をしておりますよと人に言ったときの反応はこんなかんじです。

おばちゃんA
手に職があるのはいいねー
おばちゃんB
これからは高齢化社会だから絶対需要あるわねー
おばちゃんC
安定してていいわねー

総じて好意的な見方をされる仕事なのです。人の役にも立ちそうですしね。

 

 

そんな地味だけど安定感抜群で高齢化社会にもぴったりマッチした人のお役に立てるいいお仕事を、ぼくは辞めます。それはもうきっぱりと。

 

がんこオヤジ
おいおい。職場を退職するからって仕事まで変えなくてもいいじゃないか。べつの病院で言語聴覚士続ければいいだろう。もったいない!

 

こう考えるのがふつうです。資格のある仕事だからなおさらです。

 

でも、ぼくは辞めます。もう決めました。

 

というか心の中ではすでに辞めてます。いまや言語聴覚士は「世を忍ぶ仮の姿」です。

 

 

いったいなぜ辞めるのか。

 

 

 

 

それは「仕事がおもしろくない」からです。

 

 

 

 

 

えっ、たったそれだけ!?

 

 

と思われるかもしれません。

 

 

 

 

ふざけんなー!!
世の中甘く見てんじゃねーぞー!!!

 

 

とお叱りも受けそうです。

 

 

 

でもよく考えてみてください。

 

仕事がおもしろくないことはぜんぜん「たったそれだけ」じゃないですよ。

ふざけて世の中甘く見てたのはむしろいままでのぼくのほうです。

 

 

仕事がおもしろくないのは働き続ける上で致命的な欠陥です。10年かかってやっとそれがわかりました。

わかった以上、ぼくは言語聴覚士を辞めずにはいられないのです。

 

 

なぜ言語聴覚士になったのか

そもそもなんで言語聴覚士になっちゃったかですよね。

 

ずばり「仕事に困っていたから」。

 

ぼくは働きたくないばかりに学生を延々続けてしまい、大学院まで進んだ結果みごとに就職しそびれました。

就職活動においては「このたびは残念ながらご縁が・・・」というお手紙を企業さまから山のようにいただきました。

 

じゃあ資格でも取るかと当時のぼくは考えました。こうなったら手に職をつけるしかない!

 

大学院の専攻が言語関係だったので「言語」と名の付く仕事を探して言語聴覚士にたどり着きました。

大学院にまで行って専門とぜんぜん関係ない営業とかやるのはプライドが許さなかったんですね。言語聴覚士なら自分の長すぎた学生生活も少しは肯定できるのではないかと思いました。完全に自己満足です。

 

ゆえに志はゼロでした。

ふつうこういう仕事に就こうという人はなにかしら崇高な志をもってその道に足を踏み入れるものです。しかしぼくは就職難の大洪水にのまれて流されてきちゃっただけの人でした。

とにかく働けるようになりたい。ありていにいえば、給料もらえる身分になりたーいという一心で言語聴覚士になっちゃったわけです。

 

それ本当に専門職の仕事?

いくつかの幸運がかさなってぼくは言語聴覚士になることができました。

 

言語聴覚士は「食べる」「しゃべる」「頭を使う」ことに関する専門家です。

 

東ニ肺炎ニナツタ人アレバ 行ツテ安全ニモノガ食ヘルヤウニ知恵ヲ絞リ 西ニロレツガ回ラナクナツタ人アレバ ダイジヤウブ マヅハユツクリ口ヲウゴカシタマヘト励マシ ココニ日付ヲ忘レタ人アレバ ヒトツ検査ヲシヤウジヤナイカト進ムベキ道ヲ示ス。

 

そんなことを仕事として行っていました。

サフイフモノニ ワタシハナリタイ と思っていました。

 

でもあるとき、ぼくは気づいてしまった。

 

 

 

 

リトルカトー
これって、べつに専門職じゃなくてもできるんじゃね?

 

リトルカトー
・・・・・・・・・

 

 

 

 

たとえばいきなり「手術をしてください」と言われたら一般人には手も足も出ません。逆立ちしても手術は素人にはできない。だからこれは文句なしに専門職の仕事です。

 

これに対して「安全に食べさせる」とか「しゃべる練習をする」っていうのは、なにも知らない人がやってもなんとかなります。はじめは手探りでも何回か繰り返すうちに見方が養われやり方が育っていくでしょう。

 

質問形式の検査に至ってはマニュアルどおりにやればいいので文字が読めれば誰でもできます。解釈が難しいという人もいますが早見表でも作っておいたらいいだけの話です。場数を踏めばまちがいなくできるようになれます。

異常があるかどうかを判定するだけなら専門知識はあってもなくてもどっちでもいいのです。

 

 

だとすると、これは専門職の仕事だろうか?

難しそうに見せかけてじつは仕事を囲い込んでいるだけじゃないのか???

 

 

一度そういう目で見てしまうともう元には戻れません。

「専門職詐称疑惑」がぼくの頭の中をぐるぐる回るようになりました。

 

 

仕事がおもしろくないと気づいた出来事

だれにでもできそうなことを高い質でできるから専門職なのだ、という考え方があります。

この考えには賛成です。絵描きや歌手を想像するとわかりやすい。

 

だからこそ専門職に就くものは日々研鑽に励み、勉強しなければならない。

もっともです。これにも異論はありません。

 

しかし、ぼくは勉強しませんでした。勉強したくなかったのです。

 

はじめのうちはがんばろうとして本を開いたりしました。が、10分と見ていられませんでした。

 

「なんでこんなにわかりにくく書いてあるんだ。だいたいこの本、読ませる気はあるのか?」

などと本にいちゃもんをつけはじめ読む気がすぐに失せてしまうのです。

 

勉強会もありました。出なければいけなかったのでいちおう出ていましたが、心の底から「勉強になったなあ」と思ったことは1度もありません。出て損したなあと思うことはいっぱいありました。

 

専門職には研究発表も求められますが、10年間逃げまくって現在に至ります。おかげで業績として挙げられるものはなにひとつありませんが後悔はまったくしていません。

 

だってやりたくなかったんだから。

 

 

 

 

こんな自分の不真面目きわまりない姿勢を「なまけているのだ」と思っていました。

努力をしない自分が悪いのだと自らを責め、自己嫌悪に陥ったこともありました。

 

 

でもよく考えてみると、

 

やりたいことなら逃げたりしないですよね?

どんどん新しいことに取り組んで吸収しようとしますよね?

やらずにはいられないものですよね?

 

 

そう思ったときにぼくは気づいたのです。

 

 

「あ、ぼく、この仕事おもしろくないんだわ・・・」と。

 

 

おもしろくなければ限界は見極められない

おもしろくなかったら情熱を捧げられません。力も出し切れません。ということは自分の限界も見えてこないじゃないですか。なんとなく働いておわりじゃないですか。

せっかくの人生なのにそれではもったいないと思う。

 

これについてはメジャーリーガーのイチローさんがインタビューで語っている言葉がドンピシャなので引用させていただきます。

「自分が一番情熱を捧げられるものに対しては、向き合うことができる。それ以外のことだったら、もし壁にぶち当たったら、そこで引き返してしまったり、その壁を越えないと思いますけど、野球だけでそれを僕は出来ると思います。自分の限界を見極めることができる、唯一の手段だと思います」

ーイチローが語る“哲学” 野球は「自分の限界を見極められる唯一の手段/Full Countより引用

 

 

ぼくにとって自分の限界を見極められる手段が何なのかはまだわかりません。

いまのところわかっていることは二つあります。

ひとつは自分の限界を見極められる手段を真剣に探したことはいままでなかったということ。もうひとつは、ぼくにとって言語聴覚士は限界を見極められる手段ではなかったということです。

 

どうすればうまくなれるか24時間考えていられるものじゃなければ仕事じゃない、といつからか思っています。

言語聴覚士のことは24時間考えられません。むしろできるだけ考えないようにしていました。だから勉強しなかったし週末がやたらたのしみだった。2日の休みのために平日の5日間を犠牲にして働いているようなものでした。

 

ブログのことはわりといつでもどこでも考えていられます。気づいたら考えてしまう感じです。

これが限界を見極められる手段かどうかはまだわかりません。そこまでの負荷はかけられていないし壁らしい壁にもぶち当たっていない。ただ言語聴覚士よりずいぶんましなのは間違いありません。

やってみるしかありません。

 

 

置かれた場所で咲けるとはかぎらない

だからぼくは積極的に仕事を変えることにしました。

国家資格でも安定していても人の役に立つ仕事であったとしても、おもしろくない仕事はもうしない。

ついがんばってしまう仕事をしたい。

「自分株式会社代表取締役社畜」でいいからおもしろい仕事がしたい。

 

 

「置かれた場所で咲きなさい」という本がありました。

 

「いまここで成果が出せないならどこへ行っても同じだ」という意見もあります。

ぼくは10年同じ場所にいて咲けませんでした。あと10年ここにいたら咲けるでしょうか。

 

 

未来のことはわかりません。でも過去から学ぶことはできます。

これまでの10年から考えれば、あと10年同じ場所にいたところで何かが咲くことはないでしょう。

 

 

「石の上にも三年」という言葉はじつは現代には合わないんじゃない?という話もあります。

 

辛抱強くひとつのことに取り組む大切さは否定しようがありません。

問題は「その石の上にいてたのしいか? 本当はイヤだけど我慢して座ってないか?」ってことです。

 

イヤイヤ座っているなら何年経っても結果は出ません。イヤならさっさと次の石を探したほうがいい結果が期待できます。なんでもかんでもねばり強くやればいいってもんじゃない。ねばり強さがあだとなることも承知しておかなければなりません。

 

ひとには自分が戦える場所があります。これは「マレーシア大富豪の教え」という本で学びました。一節を引用します。

私という人間に変わりはないけれど、「戦う場所」を変えれば結果は変わる。同じ努力をしても、「戦う場所」によって人生には天と地ほどの差が生まれるのです。

 

運良くそこにたどり着けたならよし。たどり着けていないなら自ら動いて探すしかない。でも探さない人の方が多いでしょう。ぼくも仕事を辞めることにならなければ探そうと思わなかった一人です。

 

だから退職は好機なのです。これを生かさずに、同じ石の上にあと10年座っているのが得策と思いますか?

 

 

働くのは食うため? 生きるため?

結局、食うために働きたいか生きるために働きたいかなのです。

 

食うために働くのであれば今の職場にとどまるのが最良です。仕事はおもしろくないけれど給料は確実にもらえます。

ただし、どんなにがんばって勤めあげても最終的に30代半ばの医師におよばない額にしかならない給料です。安定を求めるならばそこに目をつむるのもいいでしょう。

 

 

ぼくは生きるために働くことを選びました。

どうせなら生きたなーっていう働き方をしたい。生きることは働くこととほとんどイコールと考えています。だから生きるために働くほうがいい。

 

 

セスナ機を一機所有しているとしましょう。免許ももちろんあります。

落ちたら危ないからといって道路を走るだけだったとしたらたのしいですか?

翼もエンジンもあるならフルスロットルで突っ走って舞い上がったほうが絶対たのしいし、セスナ機を所有している甲斐があるというものです。

タイヤの空気が抜け翼が折れてエンジンにガタがきてからでは遅いのです。

 

 

退職のおかげで目の前に滑走路が現れたのでした。

だからぼくは仕事を変えます。

おしまい。

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